『近衛文麿』

岡義武著。72年刊の岩波新書です。副題「「運命」の政治家」。

あまり飛ばし読みできない、ぎっしり書いてある評伝で、新書のわりに時間がかかりました。近衛文麿は、帝国議会開設の翌年(明治24年)から終戦直後自決するまでの54年間、激動の時代を生きたわけですからそうそう簡単には読めません・・・。

近衛は12歳の時、父篤麿を亡くしたため、爵位をついで公爵となり、家では「若様」あらため「殿様」と呼ばれた。一高に入学した時は、「いかにも超然とした貴公子」だった。
しかし、近衛は、特権階級に反感を持ち、栄爵を辞して哲学の大学教授になろうと思っていたそうです。

近衛の思考は、大正7年、「英米本位の平和主義を排す」という論のなかで早くも表れています。英米の言う平和は、彼らにとって都合のよい現状維持である。わが国は各国平等の生存権を確立するためにも経済的帝国主義を排斥し、植民地を解放させて各国が利用できるようにしなければならない。といった内容らしいですが、後年までこれが近衛の持論だったそうです。「わが国の生くべき道は経済交通の自由、移民の自由である」から、満州事変も積極的に肯定しました。

近衛の後見人的存在は、西園寺公望。西園寺は、近衛の政治家としての大成に期待をかけ、不穏な時代の革新勢力(右翼・軍部)の傀儡になるのをさけて貴族院議長に推したりするなど、時機が来るまで「傷がつかないよう」腐心しました。しかしながら、五摂家筆頭という名門出で、国民の人気も高く、宮中や重臣との深いつながりを持つ近衛は、革新勢力にとって「利用価値大」な存在だった。

2.26事件の翌年(37年)に第一次内閣を組織。ほどなく日中戦争が勃発し、泥沼化。第二次内閣では、新体制の基礎として大政翼賛会を結成。さらに、日独伊三国同盟を締結。・・・というように、軍を制御するどころか事態は悪くなる一方だった。

近衛は、戦争には反対だった上、戦線拡大の意思はなく、戦争回避のための日米交渉にも努力した、と自身では考えていたらしく、戦争責任感が薄かった。戦犯指名を受けることになるとは思わなかったんですねぇ。
自決後、毎日新聞は、「・・・公を大政治家気取にさせたところに時代の責任がある。いはば柄にない役を演じたのである」と述べた、とあります。「死を選ぶだけの決心があるなら、その勇気を何故もっと早く出さなかったか」(有馬頼寧)という言葉も紹介されていましたが、近衛は、暗殺されるのは怖かったんでしょうか。近衛の気質の説明として「性格の弱さ」が挙げられています。平穏な時代だったらさほど大きな問題でもなく済んだのかも知れませんが。
by itsumohappy  at 01:09 |   |  comment (0)  |  trackback (0)  |  page top ↑
Comments
Comment Form
管理者にだけ表示を許可する

最近のコメント
リンク
このブログをリンクに追加する
カテゴリー
月別アーカイブ
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

ブログ内検索
FC2ブログランキング

FC2ブログランキング

RSSフィード
最近のトラックバック