『闇を裂く道』

吉村昭著(1990年)。吉村氏は、『高熱隧道』でもトンネルを扱っていますが、これは、東海道線の丹那トンネル掘削のお話です。『高熱隧道』同様、当時の政治・社会情勢にふれながら、関係者達の度重なる労苦を記すというスタイルです。 

東海道線の全通は1889(明治22)年。国府津から沼津まで現在約1時間ですが、当時は2時間半以上かかりました。熱海までの線路を作れば半分の時間に短縮されるということで、1918(大正7)年、トンネルの建設が開始されました。

当時から保養地として有名だった熱海は、明治中頃まで、小田原から歩いたり人力車やカゴで訪れるところ。1896年に人車鉄道(レールの上で客車を人力輸送する)ができても、小田原から3時間半かかりました。有力な観光地&別荘地として人々をさらに呼び込むためにもトンネル開通が望まれました。

熱海側と三島側から人力で掘り進むうち、断層(今でいう活断層)に突き当たり、大量の土砂、水がトンネルの下部からも噴出、坑道は崩壊し死者67人を出す事故も起きました。
セメントを注入しながら掘り進めても、幾度も水が出て、芦ノ湖の貯水量の3倍にあたる水がトンネル工事で流れたとされます。その結果、豊かな湧水の地であった丹那盆地の水が減り、ワサビ田、水田、井戸が枯れ、飲み水に事欠く事態に。地元民の相次ぐ請願、ムシロ旗を立てての騒擾沙汰が起きました。

北伊豆地震(1930年)では、断層がずれ、トンネルの支えとする鳥居状に組まれた柱の右側が左に移り、左の柱は断層に入ってしまいました。30キロにも及ぶ断層のため、工事は難航し、7,804mのトンネルが開通したのは15年11か月後の1934年です。

政府は、水を失った丹那盆地の住民に補償し、地元の問題は解決しました。函南村の年間予算8万円のところ117万円が支払われ、また、函南駅も設置されました。

1938年頃から、軍需物資の輸送量の増加のため、丹那トンネルの脇に新たなトンネルの建設が計画され、41年から工事が始まったものの戦局の悪化で打ち切られました。戦後、掘削が開始され、新丹那トンネルが開通したのは62年です。

実際に東海道線に乗っていると、丹那トンネルは音も迫力あって、いつまで続くんだろうと不安になります。新丹那のほうも、新幹線なのにけっこう長く感じます。活断層を通っているので、地震の時は怖いですね。
今では想像することが難しい、昔の人々の苦労をしのぶ本です。
by itsumohappy  at 18:47 |   |  comment (0)  |  trackback (0)  |  page top ↑
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