『ある明治人の記録』

のちに陸軍大将となった元会津藩士、柴五郎(1859-1945)の少年時代の回顧記。ジャーナリストの石光真人氏が本人から原文の「添削」を依頼され、編集したもの(1971年初版)。
1868年、五郎10歳の時、会津若松城が落城しました。祖母、母、姉妹は自害。その後、父親らと会津藩に与えられた新領地・下北半島斗南で「生きて会津の国辱雪ぐまで」と極貧の暮らしに耐え、前途を開くべくあらゆるつてを頼って上京してからは勉学に励み、15歳で陸軍幼年学校に入学しました。

白虎隊の話をはじめ、戊辰戦争時の会津の悲劇は聞いたことはあります。何でも、今でも、もと薩長との姉妹都市締結の話を会津側で断るとか。
五郎の家では、7歳の妹まで自決しました(五郎はたまたま外出していた)。女子は、いたずらに兵糧を浪費せぬよう籠城せず、敵侵入とともに自害、男子は生きながらえて藩の汚名を天下に雪ぐべしという考えだったそうです。ただ、藩としては、守備隊編成に当たり、入隊は強制ではなく、逃げるも去るもよし、籠城するもよしという布令を出していたとあります。守備隊にしても「散華壊滅を覚悟の布陣」であることはわかっていました。

母や姉妹らを亡くして悲憤慷慨するところはとても痛ましい。しかしながら、何でそこまで追い込まれなければならなかったのか正直理解しがたい。やたらに死んでどうする、と今の感覚では思うのですが‥。ともかく、五郎は、「薩長の下郎どもに一矢を報いるまで」の一心で流浪生活を送りました。やがて親類やそのつてで、東京で寄食生活を続ける傍ら、勉強を重ねて立身出世への足掛かりを得ていきました。
職業軍人となり、北京駐在武官も務め、1919年に陸軍大将となりました。

編纂した石光氏の解説によれば、1942年当時、五郎は同氏に、この戦は負けですと断言したそうです。氏が、緒戦における日本軍の勝利に触れると、補給の面で戦争を続けることはできないと語った、とありました。
by itsumohappy  at 21:51 |   |  comment (2)  |  trackback (0)  |  page top ↑
Comments

腹が減っては・・

作太郎さん
たぶん、わかっている人は大勢いたのでしょうね。それなのに、勝ち目のない戦を続けて・・。悲惨です。
まず資源を外地に求めた点で勝てないと指摘したそうです。
by hiro 2013/11/18 23:27  URL [ 編集 ]

軍隊と胃袋

「軍隊は胃袋で行進する」とはナポレオンの言葉です。補給の不備を指摘しているの立派。分かっている人は、ちゃんと分かっていた、ということですね。
by 作 2013/11/18 18:37  URL [ 編集 ]
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