『あゝ野麦峠 -ある製糸工女哀史』

山本茂実著(1972年)。初版(1968年)の改定版です。
映画化された「あゝ野麦峠」といえば、私のように見たことがなくても、ある年代以上の人たちにはよく知られたタイトルだと思います。

松本から北アルプス方面に行くときいつも通る「野麦街道」。飛騨と信濃を結ぶ交通路です。
野麦とは麦ではなく熊笹の実で、10年に一度くらいの大凶作の年に穂につきます。昔は、この実を粉にしてダンゴを作り、飢えをしのいだそうです。
明治から大正にかけ、昭和9年に高山線が開通するまで、飛騨から糸引き娘が、野麦峠~島々経由で岡谷・松本・上田・佐久に向かいました。当時の野麦峠は刀を持って歩かなければならないような所で、ここを越えるのは外国に行くようなものでした。
著者は、飛騨で数百人の老女を取材し、岡谷を中心とする当時の製糸業の盛衰とその背景を多面的に分析しています。

生糸は原料、技術ともに国内で自給でき、明治初期、日本の輸出総額の3分の1を占めました。茶とともに2大輸出品で97%が米国向けでした。生糸の経済力をもって日露戦争にのぞむ連合艦隊の経費を賄えたとあります。
信州に多く製糸工場が立地した背景には、土地が狭く農業だけでは苦しかったことや水が製糸に適していたこと、勤勉で質実剛健な風土等々があります。しかし、製糸業は、常にニューヨーク生糸市場の動向に左右され、生死業と言われるほど浮き沈みが激しく「10年平均の仕事」とされました。破産する工場も多かった。

はじめて糸をひく新工は、11,2歳。義務教育4年を終えたころです。当初は、農家の口減らし的なものでしたが、次第に貴重な現金収入を得る手段としての出稼ぎに変化しました。
糸引きは、糸目が切れないようにするのが重要で、製品検査が厳しかったそうです。腕のいい工女は年100円稼ぎ、一反田んぼが買えるほどでした。よい工女を確保するため工場間で誘拐もどきの争奪戦もあったそうです。

福祉施設も社会保障の類もない当時、実働10数時間のつらい労働に耐えかねて、天竜川や諏訪湖に身投げする者、結核になって郷里に帰されて死ぬ者もいました。工場の寄宿(寮)には、脱走防止のため鉄の桟がはめられていました。昭和のはじめには労働争議や組合運動が起きています。

過酷な労働や少女たちへの虐待などが記されている一方で、著者は、もと工女へのインタビューの結果、従来言われてきた画一的な「女工哀史」とはよほど違っていたと書いています。「女工哀史」と著者が言及すると老女たちは一様にけげんな顔をしたとあります。著者のアンケートによれば、飛騨のもと工女で食事が悪かったと答えた者は一人もなく、長時間労働が苦しかったと答えた者は3%。「家の仕事より楽だった」そうです。

当時の飛騨では、山木を切って焼畑でヒエやアワを作り、ワラビ根掘り、炭焼きと、朝暗いうちから夜中まで百姓と山仕事という生活でした。糸引きに出れば、コメが食べられ、1人で一家の労働1年分より多い収入を得られました。
信州の製糸業については、悲惨な工場労働の面ばかりでなく、飛騨の農村の「底知れない貧しさみじめさ」なども考慮して総合的な判断をする必要があるとしています。

「女工哀史」のエピソードばかりで構成されている本だと思っていました。読み応えあります。おそらく今は絶版と思われますが、歴史に残るノンフィクション文学のひとつでしょう。
by itsumohappy  at 17:46 |   |  comment (2)  |  trackback (0)  |  page top ↑
Comments

ありがとうございます。

作太郎さん
こんにちは
私も、適当に想像していました。昔の映画のコピー(ああ飛騨が見える)を見てもいないのに覚えていて、哀しいお話だとばかり。

当時の主な製糸工場は近江商人系の資本下にあり、資本主義の先端をいく気風があったというところなど印象的でした。
今はこういう手間暇かけた調査の本は少なくなりましたね。
by hiro 2013/08/06 19:10  URL [ 編集 ]

good review

とてもよい書評でした。本書は、しっかりした社会調査だということですね。僕は読まずに本書の内容をてきとうに想像していました。
by 作 2013/08/05 23:19  URL [ 編集 ]
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