『戦艦武蔵』

吉村昭著(1971年) 
家にこの文庫本が何故か3冊もある・・。それほど厚くないので読んでみました。

昔、所用で靖国の独特な資料館(靖国イズムで展示されている)を見学していたら、おじいさんが話しかけてきて、軍服やグッズなどそこにあった展示物を説明してくれました。そうしたらおもむろに「僕は武蔵にも乗っていたんだよ・・」って。えー。その人は、山本長官のお世話をする係(名称を言ったけどわからなかった)だったとかで、おやつは羊羹、長官が食事のときは、甲板で楽隊が演奏したんだよ、等々語っていました(当時、武蔵は聨合艦隊の旗艦)。

その武蔵は、1938年、三菱重工業長崎造船所で起工され、40年に進水した排水量6.5万t、長さ263mの巨艦です。
46㎝の主砲から1.5tの砲弾を40km先まで飛ばせました。
34年にワシントン海軍軍縮条約から脱退した日本は、巨大新型戦艦建造を計画しました。予算要求にあたり、海軍は、第一号艦(大和)、第二号艦(武蔵)の建造を、3.5万tクラスの2隻の戦艦+駆逐艦、航空母艦等の建造と偽装して大蔵省の目をごまかしました。

この本では、長崎の丘から丸見えの民間造船所で、技師たちがいかにして秘密裏に武蔵を造り、進水させたか詳しく記されています。武蔵を隠すため500t分の棕櫚縄すだれが使われ、九州、四国の市場から棕櫚は消えました。
呉で建造された大和は、ドック進水でしたが、武蔵の場合は、世界最大の幅4mの進水台に載せられロープカットで海に滑走させた。こんな大きな船は、滑走に失敗したらもう進水できないので、現場には相当なプレッシャーがあったようです。

多大な労力、資金、鋼材で完成した武蔵ですが、重油の節約と損傷を避けるため、大和とともにトラック島環礁内で温存されました。44年2月、マーシャル諸島陥落に至り、聨合艦隊は10月、航空隊の支援もなくレイテ沖決戦に突入。武蔵は、米軍の空爆と魚雷の総攻撃により大爆発し沈没しました。乗組員2399名中、1376人が救助されましたが、その多くはその後、各戦地に散らされ、結局玉砕したり、運よく内地に送還された者も軟禁同様の生活を強いられたとあります。

著者は、戦争を「奇妙な一時期」と呼び、これを解明するには、戦時中に人間が示したエネルギーを大胆に直視することからはじめるべきだ、と記しています。そして、大量の人命や物を消費したことに戦争の本質があり、ごく一部の者が扇動して開戦したものの、根強く戦争を持続させたのは、無数の人間のエネルギーに拠るものであると指摘しています。
武蔵も、レイテ後、沖縄戦に出撃した大和も、華々しい活躍ができないまま空しく沈んでしまった。今から見ると、日本人の努力の方向性は全くいかれていました。

私が、靖国で出会ったおじいさんは、武蔵を下りた後、転戦し、ペリリューでこの世の最後を見たと話しました。幸い?捕虜となって米艦に収容されるとき、米兵が、カッターを日本軍みたいにロープではなく、スイッチぽん、で引き揚げる様子を見て、勝てないと感じたそうです。「(自分たちが)捕まったときのことを考えて、僕は、捕虜にした米兵をいじめたりさせなかったよ」とつぶやいていたのが印象に残っています。

by itsumohappy  at 16:24 |   |  comment (0)  |  trackback (0)  |  page top ↑
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