『槍ヶ岳開山 播隆』

穂苅貞雄著(1997年、増訂版)。
穂苅氏は、槍ヶ岳山荘の2代目主人です。先代の三寿雄氏の研究書に新資料を加えて書き改められた本です。『行状記』という古文書をもとに、槍ヶ岳を開山した播隆上人(1786-1840)の生涯・功績が記されています。

播隆さんは、15歳の時、穢れた現世を離れて修行したいと念願し19歳で出家しました。浄土真宗、日蓮宗、浄土宗のお寺を転々とする間、寺院の堕落を見て、清浄静寂の地で独り断食するなどの修行の道を選びます。当時の寺院は、檀家制度の定着により経済的に安定し、修行をおろそかにする僧が多かった。そのため、信仰の革新運動が起こり、民衆の中で活動する念仏僧が現れていました。播隆上人もそのような念仏行者の一人です。美濃を中心に、信州、飛騨、尾張などで信者に迎えられて念仏講を結びました。天保の大飢饉時には、凶作坊主扱いされることもありましたが、上人が説法すると暴徒は皆ひれ伏したといいます。
 
上人は1823年、笠ヶ岳を再興し、その名を高めます。登山道を整備し、道標とする石仏を立て、浄財を集めて阿弥陀仏を安置しました。笠ヶ岳から槍ヶ岳を眺め、開山を決意。案内人とともに、当時工事中の飛騨新道を利用して1826年、槍ヶ岳登山を試みました。このときは、登路偵察に終わりましたが、翌翌年には、頂上をきわめ、阿弥陀仏などを安置しました。信者とともに登山し、ご来光(ブロッケン現象)を仏の出現とみて歓喜しました。より多くの人々が登れるように、4回目の登山で藁綱を、5回目で鉄鎖を頂上の下につけました。鉄鎖は57m分もあり、信者が包丁、鎌、鍬などを寄進して美濃の関で作られたそうです。

槍ヶ岳登山講は、維新の神仏分離令で廃れてしまいました。しかし、今でも愛知や岐阜県下で、生涯木食だった上人をしのび、上人筆の六字名号軸を掲げて行う念仏講(播隆講)が続いているところがあります。

私は未読ですが、新田次郎の小説『槍ヶ岳開山』では、上人は百姓一揆のどさくさで妻を刺し殺したのがきっかけで出家したことになっているとか。それがあたかも史実の如く一般に思われているのが残念とありました。
by itsumohappy  at 23:05 |   |  comment (2)  |  trackback (0)  |  page top ↑
Comments

岩屋で修行

作太郎さん
山小屋で映画とはよいサービスですね。時間もてあますこともありますし。
岩小屋(本では岩屋)に何日もこもって修行したそうです。心配した信者にかつぎ下ろされたこともあったとか。
今夏は、挑戦してみたいと思っています。
by hiro 2012/07/07 16:53  URL [ 編集 ]

槍の肩小屋

槍の肩の山小屋に泊まった時、『槍ヶ岳開山』という映画を見ました。槍沢に沿って登っていくと、途中に岩小屋がありますが、播隆は、そこに泊まって、鎖を山頂に持ち上げたとのことです。
by 作 2012/07/07 09:18  URL [ 編集 ]
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